光と愛と

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アイバンクとの出逢い〜国立駿河療養所での体験〜

私がこの運動を始めたのは今から、36年前になります。沼津クラブが発足いたしまして間もなくの頃でございました。

神奈川県からお隣の静岡県へちょっと入ったところに御殿場という市がございます。その御殿場市の郊外の神山、『神の山』と書きましてコウヤマと読むところがあり、そこに国立駿河療養所がございます。普通の病院とちょっと違い、「らい(癩)病」患者専門の療養所です。
今でこそ、「らい病」は治る病気で、決して特別の恐ろしい病気ではございませんが、40年前はまだまだ「らい病」は伝染性の高い、不治の怖い病気という間違った理解が多くの日本人の常識でございましたから、だれも敬遠して近づかないというのが実状だったように思います。私は沼津のライオンズクラブのメンバーでございますから、何とかして、このらい療養所へのアクト(奉仕活動)をしたいな・・・と、こう思ったわけでございます。

そのためには、いやでも、まず療養所を訪ねてみなければならないと思い、一人でとぽとぼ山の上へ登りました。
そこの門を人りますと、何となく、もう空気がおかしいような気がするんです。実際は山を2キロも上がったところですから、空気も非常にきれいで、清々しいところなんですけれども、「らい病」の療養所という頭がありますから、何となく空気が違うように感じるんです。

そして、半分はおっかなびっくりのような足取りで中へ入りまして、受付へ行き、「私はこういう目的で参りました。ついては、患者さんに会わせてもらいませんか」と、こうお願いしたんです。そうしたところが、「ああ、そうですか。じゃ、あっちの面会所で待っててください」と、別棟の一室に案内されました。そこは8畳間ぐらいの面会所と称するところで、窓にガラスが一つもなく、穴があいてるだけなんです。しかも、殺風景でして、真ん中に机が1つあって、椅子が五、六脚転がっているだけで、それもほこりまみれでございます。

そこへ案内されましたが、5分待っても、10分待ってもだあれも出てこないんですネ。なんだ、人をばかにするな、せっかくここに来てやったのに…。「人が嫌がって来ないところをおれはあえて来てやったじゃないか」、そういう思い高ぶった気持ちがこちらにありますから、15分も待たされるとイライラしてきました。そして、もう帰っちまおうか…と思っているところへ、やっとやってきました。やってきたのは、患者さんの代表ですね。療養所の患者さんたちでつくっている自治会があり、その自治会の役員さんという人たちでしょう。15人の患者さんたちがやってきたんです。それを見たときには、思わず息をのみました。「すごいぞ、すごいぞ」ということは、かねがね聞いていたけれども、こうもすごいものか…と正直、驚きました。

鼻がもげて取れちゃった、耳がない、目は見えない人もいる。
足は片足、大腿切断で、松葉杖という人がいる。顔の皮膚がひっつれて、ケロイド状というか、原爆症みたいになっている人もいる。手の指も両方合わせて5本ぐらいしかない・・・そういうすごい形相の人たちが15人ずらっと並ばれたときには、「う一うん、すげえなあ」と、本当に思いましたが、そんなことは口に出して言えるわけがありません。
ある程度それを承知で来たはずなんですから…。

そこで口上を述べたわけです。「私は一介の寺の住職でございます。すかんぴんでございまして何にもございません。しかし、私の背後には沼津のライオンズクラブの皆さんがついていてくれる。だからもし皆さんがこういう療養所で長いこと療養なすっていらっしゃるなら、さぞ、ご不自由なことがおありでしょう。お入り用のものがあれば、一品でも差し上げたい。ご入用のものがあれば、クラブの皆さんと相談した上で差し上げたいと思いますが、もしご希望があったら何でもおっしゃっていただきたい」と、こう切り出したわけです。恐らく、あれも欲しい、これも足りない、いろんな要求が出るものと、こちらは予想しておったところがどっこい、何とも言わないんです。
じ−っと私の顔を見ている。何と不気味なことでしょう。どうしてだろう…。
おれの言い方に間違ったところがあっただろうか…。患者さんたちの沈黙を不審に思いましたが、そのうちに一人がやっと口を開きました。

開ロー番、私に浴びせた言葉は「人をばかにするな」、この言葉でした。「ここは国立療養所である。不自由なものがあれば一品なりとも…とお前は言うけれども、不自由なものがあれば全部国が支弁してくれる。衣食住、国家保障である。その国立療養所へ来て、ご不自由なものがあれば…とはなんだ。人をばかにするな」と、こういう言い分なんです。

いや、驚きましたね。私も当時は若かったからね…、今でも若いつもりですけど、今から40歳も若かったんだから…。「いやあ、おれのような若造が来てもとても手におえるところじゃないな…」と、思いまして、「本当に申しわけありません。自分の認識不足を恥じる以外何ものもございません。そう言われれば返す言葉がございませんから、私はこれで回れ右して帰ります。もう二度と再び皆さんにお目にかかることはまずないでしょう。しかし、お体だけは大事になすってください」と言って、その代表15人と、さようならという意味で握手をして私は山を下ってまいりました。山を下りながら、ああ、今日は完全におれの負けだったなあ。相手先をよく研究もせずに、軽い気持ちで行ったということが大失敗だった…。そういう苦い反省をして帰ってきて、その日はそれで暮れました。

気持ちの中にできたよどみ

ところが、翌朝・・・。昨日会った15人の中から代表の一人が私の寺までやって参りました。(何だと、きのうはあれだけ人を足げにするようにしておきやがって、一夜明けたら何で来たんだ、まだ文句がつけ足りなくて来たのか…。よし、それならこっちも言うことがある)という気持ちで、私は出ていって会ったわけです。
そしたら私より1つ若い男性でございましたが、
「まあ聞いてください。私どもは、昨日、あんたが帰ってから、患者400人の自治会の総会を開き、いきさつを報告しました。ところが、『そういう人ならこれからぜひ毎月来てもらいたい』ということになりましたので、お願いに参りました」というのです。

そこで私は、「なんだ、人を飲んだり、吐いたり、人をばかにするな」と、今度はこっちが言う番でしょうね。そういう気持ちの返答をしましたところ、「いや、そうじゃございません。聞いてください。実はこの療養所を慰問する人もあるんです、あるんですけれども、何がしかの慰問の品を持ってきて、で、私どもと距離、間隔をとって、『皆さん、お大事に』と言って帰ってしまう。
だれも私どもの体に触ってくれる人はございません。なぜならば、らい病は接触伝染するからです。
そこまで聞いたときに、(なぜお前はそれを早く言わんか…、坊主だって命は惜しいんだ(笑)。
それを知ってりゃ、握手なんかだれがしますか、15人もと。まあ、その手で昨日は晩めしも食べちゃったし、今朝は顔も洗っちゃったですからねえ、)もう今さら何を言ったって、時、既に遅しでございます。そういう実に漫画みたいな一幕がございまして、それから一月置きにその療養所へ通うことになったわけでございます。

そうしているうちに、だんだん療養所の中の様子が分かってきまして、400人いる患者さんの中に、なんと36人、目の見えない人がいるんです。そこでその所長さんに、「ここの療養所には、ばかに目が見えない人が多いねえ」と話したんです。そしたらその所長さんが言うのに、「それはそうだ。らい菌が、レプラ菌が、角膜を侵してしまう。そうすると失明するんだ。だからこれは何もうちばかりじゃなくて、全国13の国立療養所、みんなこの率なんですよ」と説明してくれたんです。
が、こっちは、当時まだ、角膜がどこだか、網膜がどこだか、その区別さえわからなかったんですが、「目ぐらい何とかならないもんでしょうかネ…」と、気休め程度の気持ちで院長さんに言ったら、「それは新鮮な角膜があればね…」と、こう言ったんです。
つまり、角膜移植をすれば治る可能性があると、答えてくれたわけですが、こちらはそれが分からなかった。で、「さようでござりまするか…」で、その日は別れちゃった。
しかし、目ぐらい何とかしてやりたいもんだなあ…という気持ちが私の胸の中によどみのようになって残っておりました。

通夜、坊主の後に来た医者

忘れもしません。昭和39年の7月5日、暑い盛りのことでございます。
沼津の郊外に静浦という海岸端がございます。そこに住んでおります野坂清太郎さんという89歳のおじいさんがお亡くなりになった。この人は私のところの檀家でございます。私は菩提寺の住職ですから、招かれてお通夜に行ったわけです。
そして例のごとく、お通夜のお経をあげまして、済んだのがもう8時過ぎていたでしょうか。明日はご葬儀ですから、その準備もあるんで、「今夜はこれでおいとまいたします」と言って、おじいさんのご遺体の置いてある部屋を後にし、廊下伝いに玄関へ出ていきました。

そうしたところが、清太郎さんの息子さんの蔵(おさむ)さんという方が、私を玄関まで廊下伝いに見送ってくだすったんですが、その途中で歩きながら言うんですよ。「お寺さんネ、これからお医者さんが来るんだよ」って…。「何を言うんだ。お医者さんが帰ってから坊さんが行くというのが物の順序で、坊主がお経をあげて終わって、後からお医者さんが来たって、それはどんな名医か知らないけれども、手遅れというもんじゃなかろうか…」というようなことを、つい言ってしまったんですが、「いや、そうじゃない。慶応病院からおじいさんの角膜を取りに来るんだ」というのです。
そこで私は生まれて初めてアイバンクの現実にぶつかったわけでございます。

「ああそうか。これがアイバンクというものか」私もどっかで、新聞か雑誌か何かだと思いますが、「アイバンク」という言葉は知ってたんですね。だけどその内容は全然知らなかった。で、玄関まで行ったのをまたバックしまして、お医者さんの来るのをおじいさんのご遺体の安置してある部屋で待っておりました。もう10時半、11時ぐらいだったかなあ、やっと、慶応病院からお医者さんがタクシーに乗って箱根の険を越えてきた。昭和39年といいますと、まだ東名高速なんていうハイウエイがない時代ですからネ。あの箱根の山の「天下の険」を越えてくる。だから4時間以上かかったんじゃないでしようか…。そうしてやってきたのは、30ぐらいのまだ若いお医者さんでした。その方が車を門前に待たしておいて入ってきました。