日本のライオンズクラブとアイバンク運動

60年代末の献眼運動の高まり

東京で(ライオンズクラブの)国際大会が開催された年(1969年)の前後は、アイバンク設立につながる献眼運動が高まっていた時期でもあった。

日本では1958年4月「角膜移植に関する法律」が公布され、角膜移植手術が公認されたが、それまで、この手術は「刑法」の死体損壊罪に抵触するものとされていた。(角膜移植に関する法律公布の前年)1957年10月、岩手医大の今泉亀撤教授が死亡者の角膜を地元の岩手県立盲学校の生徒に移植し、手術は成功したが、これが「刑法」第190条の罪になるのではないか、と報道された。

この告発記事が発端となって角膜移植に関する法律が国会で審議されることになったわけだが、その同じ57年、302地区ガバナーだったL原勝巳が、岡山労災病院に死後の献眼を申し出ている。ライオンズとアイバンクのかかわりを熟知していた人の行動と言えよう。実質的にはこの献眼(登録)が日本での登録第1号となるわけで、法律ができた58年には早くも、福岡ライオンズクラブが献眼登録運動を開始した。

岡山では、1961年、当時の県知事だった岡山ライオンズクラブのL三木行治が献眼登録し、それが岡山県での正式登録第1号となった。このことに賛意を表明し、同じ岡山県の金光ライオンズクラブでは会員と家族、それに知人7人を加えた計62人が、その年の9月に岡山大学医学部に集団で登録して、日本のライオンズクラブとしては初の会員全員登録を実現させた。

1963年10月、慶応大学病院と順天堂大学病院に日本初のアイバンクが設立され、同じ年に大阪でもアイバンクがスタートした。翌年、岩手医大にもアイバンクが設立され、東京では読売光と愛の事業団のアイバンクがスタートした。

更に、東京関東LCの報告に接した当時の302ーE1地区第一R第一Zの六つのクラブ(東京、東京丸の内、東京千代田、東京関東、東京神田、東京霞ケ関)は、協力して献眼運動を進めるため、1964年3月、ライオンズ・アイバンク協会を発足させ、L佐藤三蔵が会長に就任し、「虎は死して皮残し、ライオン死して目を残す」のスローガンを掲げて、活発な運動を開始した。

一方、同じ1964年夏、静岡県沼津市で独自の動きが始まっていく。その年、沼津LCのL勧山弘は貴重な体験をする。僧侶だったL勧山は檀家の通夜に出かけ、その席で亡くなった人が角膜を登録していたため、角膜摘出に立ち会うこととなる。その無償の愛の姿に接したL勧山は深く感動し、夫人と母堂と共に献眼登録を済ませ、例会の席でもアイバンクへの登録を提言した。

1965年10月、沼津、沼津千本両クラブの会員90人が登録を済ませ、翌年から市内全域で献眼を訴えたリーフレットの配布を始めた。67年、登録者は600人に上り、その年の秋、沼津で全国初のアイバンク登録者大会が開催された。

沼津から全国へ躍進

この時期、アイバンクへの関心は沼津だけではなく、全国のライオンズに広がり、京都8京都ウエストLCではアイバンク促進を訴えるPR映画が制作された。この映画はテレビのワイドショーで紹介されたこともあって、各地のクラブで活用され、302-W5地区の年次大会でも上映され、アイバンク運動の促進に役立てられた。

静岡での動きが加速する。68年末、静岡県内全クラブによるアイバンク運動推進協議会が開催され、更なる運動の拡大が求められた。当時、国内の角膜障害による失明者は25,000人と言われ、アイバンクは21を数えたが、献眼登録者の数は全国でもまだ3万数千、死後提供数は年間400眼ほどであった。

献眼登録者を増やし、角膜移植クリニックを増設すれば、光を呼び戻せる失明者はもっと増えるのではないか、ライオンズの協力を結集しようではないか、という声が高まった。1970年、302-E2地区65クラブが参加して第二回の協議会が開かれた。

「日本における25,000人の失明者に、我らライオンズの手によって光を与えよう。それは決して不可能ではない。あなた自身のウィ・サーブの決意にかっている」という呼び掛けで、1971年3月、第一回アイバンク運動全国大会が沼津市公会堂で開催され、全国から1,000人に及ぶライオンズが集まった。

この大会の成功を受けて、1972年10月、岡山県倉敷市で第二回アイバンク運動全国大会が開催された。  

※以上、ライオン誌日本語版編『ウィ・サーブ 日本ライオンズ半世紀の航跡』P121〜126抜粋

ライオン誌日本語版編『ウィ・サーブ 日本ライオンズ半世紀の航跡』